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船鉾のあらまし
祇園祭の歴史は古く、今から千百四十五年前、貞観十一年(869)の昔に遡ります。当時、京の都に平安京が造られ(794)、都邑の発展とともに人々は、災害や疫病にたえず悩まされていました。
これはみな悪霊の祟りと恐れられ、荒ぶる神々の御霊を慰めるために祇園御霊会として祀ったのが、祇園祭のはじまりです。
山鉾の形態も当初は、いまにみるようなものではなく、ごく質素なものでした。京のまちは、その後も応仁の乱(1467)や度重なる大火に見舞われますが、今日のような山鉾の姿をみせるのは江戸時代の中期以降とされています。
船鉾の名の古文書に初めての登場は、応仁の乱の前、室町時代の中頃の文書、祇園社(いまの八坂神社)に伝わる「祇園社記」(第十五、御霊会山鉾記)の記事で、「神功皇后の舟」と記されています。この頃、すでにこの名の鉾が二基あり、その一つが前祭の殿を飾る「出陣の鉾」といわれる現在の船鉾であり、もう一基は元治元年(1864)に焼失し平成二十四年に百四十年ぶりに巡行に復帰した後祭の殿を飾る「凱旋の鉾」でありました。
その後も、祇園祭全体も幾多の変遷を辿ってまいりましたが、現在ある三十三基の山鉾のなかでも、この鉾は船の形をした美しい鉾であることから、多くの人々を魅了し、人気を集めるようになりました。
もともと、日本は島国で外国との交易には、遣唐使船、天竜寺船、遣明船などの大型船が活躍した歴史がありますが、船鉾のモデルとなった船は「安宅船」と呼ばれる中規模の軍船とされています。
しかし、祇園祭を楽しく盛大に執行したいとする京の町衆にとって、戦争を好む筈はなく、ご神体の神功皇后の説話を題材に、趣向をめぐらし贅を尽くし、より豪華に、より華やかにと、あたかも他の山鉾と妍を競うような華麗な船鉾に造りあげました。
このように、祇園祭も、そして船鉾も、ながい歴史と時代の移り変わりを経てきたのですが、祇園祭を受け継ぎ、発展させてきた京都の人々の誇りと心意気をお汲みとりいただきたいと存じます。
- 重量8.41トン(巡行時。人、懸装品含む) 5.99トン(山鉾装飾のみの重量)
- 高さ/地上から屋根まで約6.7メートル
- 車輪/直径約2メートル
- 鉾床面積/約6畳
- 車方、大工方、音頭取/約50人
- 曳子(曳綱で鉾を曳く人)/約40人
- 囃子方/約50人